インタビュー
米屋を継ぎたくなかったんです。
びっくりするくらいの笑顔で衝撃的な告白をしてくれたのは、原宿・表参道で唯一の米屋を営む小池精米店・小池 理雄さん。五ツ星お米マイスターとしても活躍し、自身もイベントを企画する等、お米の楽しさを伝える活動に熱を入れています。お店は小池さんの世代で、3代目。
もともとは、祖父が原宿で米屋を始めたみたいですね。昭和5年頃って聞いています。なんで米屋だったんでしょうね…。今は「Q Plaza」のあるあたりが昔は長屋で、そこに店を構えたようです。祖母が薬剤師だったので、米屋のとなりに薬屋が並んでいるという、不思議な空間だったようですよ。
小池さんの話し振りはとても朗らかで、時折「ハハッ」と短い笑いを交えながら、こちらを和ませてくれます。
昭和14年〜15年頃に長屋から出て、今のお店の近くの駐車場に2号店を構えたと聞いています。当時そこは参道市場という市場でにぎわっていたようですが、戦争が始まった頃にはお米屋さんはお米を売る立場から配給する立場、つまり公務員になったわけです。
終戦から2〜3年後、お向かいさんに土地を譲ってもらい、現在の土地で小池精米店が再スタート。その後、お店は小池さんのお父様の代へと世代交代するわけですが、お父様は大学卒業後に豊橋でテレビの枠等をつくる木工会社の技術者として働き、すぐに米屋を継いだわけではなかったとか。
父が会社を辞めて米屋を継いだ頃は、まだお米は値段も高く、米屋でしか買えない時代。なにも特別なことをしなくともお米が売れる、安定した時代でした。
以前honshokuで小池さんのお店見学に行った際、技術者出身のお父様らしいお米の管理方法が受け継がれていました。お米の品種が書かれた札をマグネットに挟み、精米の行程ごとに移動していくというもの。他のお米と混ざらないよう、また間違いのないようにとお父様が編み出したんだそうです。
マグネットに下がっている札に書かれた品種がいまこの機械の中に入っている。小池さん自身はお姉さん2人をもつ末っ子長男。てっきり米屋を継ぐことを前提に育てられたのかと思いきや、冒頭にも述べた通り、意外にも「逃げ回っていました」といいます。
なくなってしまうのはさみしかった。
大学を卒業後、米屋を継がずに済むにはどうしたらよいかを考えていたという小池さん。出版社で編集者として働き、その後、社会保険労務士の資格を取って転職。人事コンサルティングのような仕事でお客さんのところへ出掛ける毎日が続きました。
米屋の仕事がたのしそうに見えなかったんですよね(笑)でも逃げ回っているうちに親父が倒れて。あ、結局大丈夫だったんですけどね。それをきっかけにその当時の仕事と兼業する形で米屋の世界へ入りました。
近所の魚屋、肉屋、八百屋に酒屋。そういう人たちが頑張っているのに、自分のところだけなくなってしまうのはさみしい。そんな気持ちになったそう。いよいよここから、小池さんの米屋人生がはじまりました。
次回へつづきます。お時間のある方はこのまま、ない方は電車内や休憩中等のスキマ時間にぜひご覧ください。
(取材・文:honshoku高野 瞳)有限会社小池精米店 小池 理雄氏
昭和5年より続く、原宿・表参道で唯一のお米屋として知られる小池精米店の三代目。「東京都ごはん区」メンバー。五ツ星お米マイスター。有名な米どころから、まだ知られていない地方の名米まで、安心・安全な産地直米を届けることをモットーに、新しいお米の楽しみ方を提案する。
http://www.komeya.biz